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水村美苗、待望の長編小説をその思想的背景から読む『母の遺産』

長編評論日本語が亡びるとき 英語の世紀の中でが梅田望夫氏や小飼弾氏に絶賛された水村美苗氏。扇情的なタイトルと文体、華々しい評価に対して、賛否両論が巻き起こったのは記憶に新しい。
 
この水村氏、現在はスタンフォード大学の客員教授として日本近代文学を教えている。世界的に高名な批評家ポール・ド・マンのもとで文学理論を学んだ水村氏は、今まで発表してきた小説作品で文学と社会の結び付きを意識した問題設定で評価されてきた。水村氏が読売新聞に連載していた、その名も母の遺産 新聞小説という長編が単行本にまとめられたので、その背景を少し掘り下げてみた。
 
本作は、明治の代表的な文学作品でこちらもまた読売新聞の連載小説であった『金色夜叉』に重ね合わされながら、現代の高齢化社会の介護問題や中年夫婦の離婚などの生々しい題材を盛り込んだ物語。もちろん、重苦しいばかりではない。序盤で主人公が夫との関係を深めていく部分やは、読んでいて思わず溜息が出てしまう。美しいのだ。『日本語が亡びるとき』で水村氏が守りたかったのは、この美しさなのだろう。
 
母の遺産
装画は19世紀イギリスの詩人・思想家でデザイナーでもあるウィリアム・モリス。
口絵・題字は現代美術家の山口晃。
 
実は水村氏と夫の岩井克人氏のご夫婦には、僕の両親が若いころたいへんお世話になったらしい。僕も赤ん坊のころに会ったことがあるという話を聞いたのだが、当然まったく覚えていない。『母の遺産』は、あきらかに水村氏をモデルにした主人公の母親の死から書き始められる(なお「今日、ママンが死んだ」という書き出しで始まるのはカミュ異邦人。作中でも軽く言及がある)。僕の母の母親、つまり祖母もつい先日他界した。なんだか他人ごとには思えないストーリーなのだが、これはおそらく水村氏の迫真の筆力がそう思わせるだけで、神秘的な繋がりがあるわけではないだろう。
「これってひょっとして私のことが書かれているのかしら」と思わざるをえないようなリアリティ、と表現している書評もあった。
 
主人公の母親のモデルとされた水村節子氏は、78歳のときに自伝小説高台にある家を発表(解説は水村美苗氏)している。『母の遺産』と『高台にある家』は是非とも並べて読みたい2冊だ。節子氏の『高台にある家』という書名は、『母の遺産』の章題のひとつにそのまま使われている。
高台にある家
 
水村氏は『日本語が亡びるとき』で、日本の近代小説が生み出した美しい言葉とその思想が失われていくことに警鐘を鳴らしていた。先日このBookニュースで紹介したライトノベル表現論では、批評家の柄谷行人氏の著作近代文学の終わり、仲俣暁生氏極西文学論が引用され、ライトノベルなどの娯楽小説が代わって興隆してきており、その意義を肯定的に捉える思想が紹介されていた。しかし、娯楽小説という意味では、本作『母の遺産』が本歌取りした『金色夜叉』ももともとは娯楽小説として書かれたもの。
柄谷氏はかつて水村氏が小説を連載していた思想誌「批評空間」の中心的なメンバーだったし、仲俣氏は『日本語が亡びるとき』が話題になったときにかなり激烈な調子で批判論陣を展開していた評論家だ。
小説作品である『母の遺産』、評論『日本語が亡びるとき』と、ライトな学術書『ライトノベル表現論』を単純に比較することは難しいだろうが、繋げて読むことで見えてくるものがあるのではないだろうか。

 

ライトノベル表現論   柄谷行人の思想、総決算と新展開   極西文学論

 
また、知識人階級の中年夫婦の感情が重要なテーマのひとつになっている点については、妻側の視点から描かれた本作に対して、夫側の視点から描かれた東浩紀氏のクォンタム・ファミリーズと併せて読みたくもなる。SF的な技法に貫かれた『クォンタム・ファミリーズ』と、リアリズムにもとづいて書かれた本作は、一見したところまったく異なっているように見える。しかしながら東氏と水村氏の思想的な背景や社会的な立場の距離は驚くほど近い。
東氏はかつて『批評空間』からデビューしており、2人とも日本文化に対するアメリカ中心のグローバリズムの影響に敏感だ。その背景には、東氏が学生時代に研究していたジャック・デリダらのフランス現代思想と、そのデリダの強い影響のもとアメリカに「脱構築派」を展開した水村氏の師ポール・ド・マンの思想がある。本書のタイトルにある「遺産」という概念は、デリダが晩年に展開した思想の根幹をなすもののひとつだ。東氏の初期著作の代表的なものである哲学書存在論的、郵便的では、デリダの著作絵葉書が分析の対象にされている。この『絵葉書』は、精神分析を哲学的に扱った哲学書であると同時に、デリダが浮気をして妻でない女に子供を産ませたかのように読める、虚構的・私小説的な側面も持ち合わせている。東氏とライトノベル作家の桜坂洋との共著キャラクターズの表紙では、その『絵葉書』がパロディ化されている。
『母の遺産』で、主人公の夫の浮気が発覚したときの主人公の心の動きの描写の生々しさはまさに恐ろしいほどだ。この「妻」に対して、デリダの『絵葉書』に登場する「夫」が言うような“愛”が果たして通じるのだろうか。『クォンタム・ファミリーズ』と併読の際には、是非『絵葉書』も忘れずに側において欲しい。また水村氏も東氏も、私小説的な問題に正面から取り組んだ作品を(おそらく意図的に)書いている。夫婦の問題を扱った私小説は、島尾敏雄『死の棘』など無数にあるが、「すでにある無数の類型を意識した私小説的作品」というのも、水村・東の両氏に共通して言えることなのではないだろうか。

 

クォンタム・ファミリーズ   絵葉書I   キャラクターズ

 
最近にわかに注目を集めている若手哲学者・國分功一郎氏が『暇と退屈の倫理学で中心的に論じた思想家のひとりにウィリアム・モリスがいる。ウィリアム・モリスは、デザイナーであると同時に社会思想家でもあり、カール・マルクスの娘エレノア・マルクスとともに活動していた時期もあった。モリスの思想は、「いかに生活を充実したものにするか」という問題を主題にしたものであり、デザイナーとしての活動はそのクリエイティブな側面だったとも言える。その問題意識は、本作にも通じるところがあるのではないだろうか。なお『絵葉書』のあとにデリダが書いたマルクスの亡霊たちに対するマルクス主義思想家に対するデリダの回答をまとめたマルクスと息子たちの翻訳は國分氏の手になるものだ。この『マルクスの亡霊たち』と『マルクスと息子たち』では、先述の「遺産」概念が論じられている。
「父と息子たち」をモデルにして、ヨーロッパ的な知識が継承されていくという構図が批判されるデリダに対して、「母と娘」という構図を持ち出すこと自体は珍しくはない。しかし、その内実を文学的に(かつ娯楽としておもしろく)描き出すことに成功した例は少ないだろう。水村氏の今回の作品は、その数少ない例のひとつに新たに加えられて良いものだと思う。

 

暇と退屈の論理学   マルクスの亡霊たち   マルクスと息子たち

 
そして、現代日本に至る女三代記を描いた娯楽小説という意味では、桜庭一樹赤朽葉家の伝説も引き合いに出しておきたい。どちらも、先行する無数の文学作品からの影響をあからさまに作中で引用しているという共通点がありながら、重厚で硬質な水村と、軽快で軟質な桜庭との対比を楽しめるに違いない。
赤朽葉家の伝説
 
【関連ページ】

母の遺産―新聞小説 [著]水村美苗 – 松永美穂(早稲田大学教授・ドイツ文学)BOOK.asahi.com:朝日新聞社の書評サイト

朝日新聞の書評サイト「BOOK.asahi.com」に、ドイツ文学研究者の松永氏の書評が掲載されていました。
「愛をとるか、金をとるか。究極の問いに対するこの小説の答えはきわめて現代的でありつつ、深い。」
 

まだ桜庭一樹読書日記 【第2回】(1/4)[2012年5月]|桜庭一樹読書日記|Webミステリーズ!

『本格小説』に言及しているページが公開されていたので追加しました。
 

水村美苗「日本語が亡びるとき」の書評まとめ。 | ブログが続かないわけ

日本画が亡びるとき
ネットでたいへんな話題になった『日本語が亡びるとき』の書評をまとめたページ。
このページの作者は『日本語が亡びるとき』のような評論ではなくて、長編小説を読みたいと書いています。出ましたね!
 

[書評]続明暗(水村美苗): 極東ブログ

続明暗
夏目漱石の未完小説『明暗』の続編を書く、という大胆な作品『續明暗』についての書評。
「取り憑かれたように半日で読み終えた。軽量な続編ということではない。精緻な筆致には率直なところ脱帽した。畏れ入りましたの類だ。」
絶賛です。
 

小説:『母の遺産--新聞小説』を刊行、水村美苗さん 母娘の壮絶、生々しく – 毎日jp(毎日新聞)

毎日新聞の記事。

 
 
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当「BOOKニュース」を担当している’79年生まれ男性。
アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。
その後、札幌・千葉・マニラ・東京・京都を転々。現在は板橋区在住。
フリーター・契約社員・嘱託社員・正社員・無職・結婚・離婚など紆余曲折を経て現職。
百科事典と画集と虫と宇宙が友達です。
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コメント

  1. 「水村さんの長編小説を読みたい」と書いていたものです。これは読みたいですね!紹介、楽しく拝読させて頂きました。

  2. >junichiroさん
    コメントありがとうございます!
    あの記事、たいへん参考になりました。
    ご高覧いただき恐縮の至りです。今後ともどうぞよろしくお願いします!

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