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仮面から人格へ、そして哲学の存立基盤まで。表象06ペルソナの詩学

表象文化論学会の学会誌表象の第六号が、4月24日に発売予定だ。発売元の月曜社ブログウラゲツ☆ブログで、先行販売をしている東京堂書店神田神保町店の店頭写真が掲載されている。
 
表象文化論学会は、加速度的に多様化し流動化している現在の文化状況のもと、その変容を精密に分析し、その研究成果を文化創造の現場にフィードバックしていくために設立された学会。文学、芸術、哲学から、テレビ、映画といったメディア、そしてポップ・カルチャーまで、幅広い対象を扱う。……全体像がつかみにくい団体だが、学会の目指す方向性そのものに自己言及的に検討を加える必要があるため、明確に総体を把握しづらいのは仕方ないかもしれない。
 
※記事執筆時点で、Amazonに『表象 06』が登録されていないため、前号と前々号の書影を掲載しておく。

 

      

 

※amazonに書影が掲載されたようなので、書影を追加しました(2012/5/2)。
 
本誌の紹介の前に、まずはこの学会のテーマである「表象」という概念について概説しておきたい。
表象という概念はそれが使われる文脈によって異なった意味合いを持つ。例えば哲学においては「再現=代行」を、演劇では「舞台化=演出」を、政治的には「代表制」をそれぞれ意味する。表象文化論学会は、これらの異なる文脈を横断し、たとえば哲学のなかに演劇的・政治的な意味合いを、演劇のなかに哲学的・政治的な意味合いを、そして政治のなかに哲学的・演劇的な意味合いを見出そうとする。
今回で第六号となる特集「ペルソナの詩学」も、このような意図のもと企画されたものであろう。
 
 
さて、この表象文化論学会学会誌である『表象』の今回の特集は「ペルソナの詩学」。
現代美術家の森村泰昌氏と、哲学者の小林康夫氏との刺激的な対談から始まり、特集のキーワードとなる「ペルソナ」という概念をめぐる若手研究家による論考が並ぶ。
特集以外にも意欲的な論考や書評も多数収録されているが、今回は特集を中心に紹介したい。
 
今回の特集に収録されている論考のひとつ「〈ペルソナの隠喩〉再論」において岡本源太は、仮面と人格という二つの意味をもつこの「ペルソナ」という言葉(この言葉には実に多くの意味が与えられている。たとえば役割、人物、個人、個性など)が、もともとは仮面という意味しか持っていなかったことを述べている。
岡本氏の論考は、もともとは仮面を意味していた「ペルソナ」が、やがて「人間そのもの」を指すように変遷していった過程を、社会学者で文化人類学者でもあるマルセル・モースの講演「人間精神の一カテゴリー 人格の概念、「自我」の概念」の紹介を通じて論じるものだ。
 
モースによると、ペルソナが仮面から人格を指すようになるのには、三つの契機がある。
ひとつは古代ローマの儀礼と法。かつて古代ローマには祖先のデスマスクを祀る風習があったという。その仮面は、法的な権利に密接に関わっていたため、ペルソナは個人や法的な主体をあらわすようになった。
つぎに、ストア主義哲学。セネカやエピクテトス、マルクス・アウレリウスらは、人生を演劇の舞台とみなした。人々はその割り当てられた仮面で自らの役割を演じてみせることが倫理的な生き方だと説いたのだ。
三つ目はキリスト教神学。キリスト教では、父なる神、イエス・キリスト、そして聖霊という三位一体という考えがある。特にキリストは人でありかつ神であるという矛盾を抱えた存在であり、その解決のために正統と異端の入り乱れる教義論争が引き起こされた。この論争の過程で、ペルソナは「役割や身分にとらわれない個体」という意味を担うようになったという。デカルトやカントらの近代哲学は、このキリスト教のペルソナ観に個人的な内面性を付け加え、人格を「自我」と同義にしたのだ。
 
この岡本氏の論考では西洋におけるペルソナが扱われたが、続く横山太郎氏の「能面のペルソノロジー 和辻哲郎と坂部恵」は、タイトルのとおり日本の能楽の「お面」を題材にした論考だ。
夏目漱石の弟子である和辻哲郎とその兄弟子の野上豊一、彼らの思想を批判的に受け継いで発展させた坂部恵の「人格」概念をめぐって、どのような思想が主張されていたのかが述べられる。
かつて表層のペルソナに対して、それを剥いだところには「素顔」があると考えられていた。たとえば野上がそうだった。しかし本論考によれば、和辻はペルソナの「裏側」に「<本当の私>の人格などない」と主張した。人格は、表層の「ペルソナ=仮面」が獲得するものでしかない。そしてその和辻の論を引き継いだ坂部は、そのペルソナがどのように生成されるのか、その過程を考察する。
この論考で、坂部恵の論を要約しながら「表層においては、私でありあなたであるような人格が個別にかたどられているとしても、それらはこの無限に他者になる深層の次元から、「なにかであること」の可能性を確保している」と書かれていることは、続く千葉雅也氏の「不気味でないもの」を理解するにあたって重要だ。
 
千葉雅也氏の「不気味でないもの ラカン、ドゥルーズ、メイヤスーを介した自然哲学のスケッチ」は、非理性的な主体がどのように自らの権利を主張しうるのかを論じたもの。
既に極限まで圧縮されているこの論考を、さらに要約して紹介すると誤解を招きかねないため、興味を持たれた読者には是非本誌の千葉論文を直に読まれる事を強くおすすめしたい。タイトルのとおり、まさにスケッチといった荒削り感のある論考ではある。しかしながら、理性的主体を前提にしたカント哲学にも、異性愛を前提とし倒錯者を疎外するフロイトやラカンの精神分析の思想にもとらわれない、より解放された存在の権利を論じる感動的な文章だ。
それは単なる非理性的な存在のためのものではなく、カント以来の哲学的伝統が拠って立つ基盤を探る極めて理性的な試みでもある。
 
なお、この千葉論文の理解のためには、雑誌『SITE ZERO/ZERO SITE』第0号に収録されている森田團「仮面をつけた現実」という論考を読むことが役立つだろう。
「イメージにおいて原初に抑圧された死」に触れている森田氏の論考は、本誌の岡本氏の論考でも触れられていたペルソナのデスマスク性や、同じく仮面を意味するイマーゴ(イメージの語源)、そして横山論考で述べていた「能面がもつ死との関連」を思い起こさせる。
 
哲学や精神分析がこだわる「リアル」は「不気味なもの」として現れる、と千葉氏は述べる。「不気味なもの」という概念は、フロイトが「鏡に映った自分の姿」から見出したもの。この「不気味なもの」という概念と神秘主義を結び付けて語るのは、続く信友健志「関係性の実在論 享楽の自存性としてのペルソナ」だ。
 
さて、千葉氏が述べる「不気味でないもの」は、哲学や精神分析が絶対に触れられないリアルな存在ではないものに、どのようにして触れることができるかを問う。千葉氏は、単にそれを問うだけではなく、理性では到達できないはずの「リアルではないもの」に、自ら成り変わっていこうとするのだ。
それは本特集冒頭の対談に登場した森村泰昌氏の作品に抑鬱を見出し、そこにあるリアル、素朴なポストモダニスムを回避して、ニヒリズムや抑鬱を根底から解放され、楽しさやユーモアを実現する手段を模索することにほかならない。
法的な権利主体でも、社会的な役割の主体でも、理性的な主体ですらもないようなペルソナ(人格的なイメージ)は、どのように可能なのか。今後も千葉氏の思想には注目していきたい。
 
なお、この特集を読んで僕が一番最初に思いついたのは、Twitterのアイコンや、ロールプレイングゲームのプレイヤーキャラクターだ。それらは現代的な仮面の新しい現れだとは言えないだろうか。
たとえばオフラインの人格とあまりに異なるネット人格とか、ときに生体を離れて売買されるSNSのアカウントやMMORPGのプレイヤーキャラクター、死んでしまったユーザーのSNSアカウントがサービス上に残り続けるということなど、について考えるときに、今回の特集を参考にすることができるだろう。
本誌の表紙や特集の扉頁で、特集名の英語表記がデジタルデバイスに現れる文字のようなフォントで書かれていることは、この僕の読みが考え過ぎの所産でないことを裏付けているのではないか。
 
なお特集のほかに収録された論文のうち、池田絢子「石膏像の記憶 1970年代のイタリア美術における形而上絵画の系譜」は特に興味深かった。
新しさを追究するアヴァンギャルドの原理が臨界点を迎え、来るべき1980年代以降のポストモダンの先駆とも言われる、イタリア現代美術における石膏像を用いた作品の流行。
過去の作品を引用するにあたってなぜ石膏像が多用されたのかについて池田氏は検討を加える。過去の作品を引用するだけならば、絵画でも写真でもよかったはずだ。なぜそこで石膏像なのか。
 
目次
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巻頭言:聖フランチェスコの亡霊 岡田温司
 
特集:ペルソナの詩学
対談|Echec et mat 白のゲームとして 森村泰昌+小林康夫
対談後記 日高優
〈ペルソナの隠喩〉再論 岡本源太
能面のペルソノロジー 和辻哲郎と坂部恵 横山太郎
不気味でないもの ラカン、ドゥルーズ、メイヤスーを介した自然哲学のスケッチ 千葉雅也
関係性の実在論 享楽の自存性としてのペルソナ
装置としてのペルソナ ロベルト・エスポジト 多賀健太郎訳
 
論文
法の宙吊り 大島渚『絞死刑』における国家と発話主体 御薗生涼子
民主主義の自己免疫とその反転 デリダにおける残虐性なき死の欲動をめぐって 佐藤嘉幸
デリダによる超越論的病理論 カント、フッサールを導きの糸とする「来たるべきデモクラシー」考 長坂真澄
「異なるもの」の時間 ツェラーンに読まれたマンデリシターム 斉藤毅
石膏像の記憶 1970年代のイタリア美術における形而上絵画の系譜 池野絢子
事物は同志 ロトチェンコによる労働者クラブのプランとプロレトクリトの思想をめぐって 河村彩
心理の可視化 実験心理学とグラフ法 増田展大
セザンヌの廃墟と非人間的情動 荒川徹
放物線上の超越 ミシェル・ドゥギーにおける「崇高」の誇張的読解 星野太
 
書評
肉塊の思考 金杭『帝国日本の閾 生と死のはざまに見る』 冨山一郎
分析ツールの諸問題 長木誠司『戦後の音楽 芸術音楽のポリティクスとポエティクス』 杉橋陽一
「イマージュ」から「イメージ」へ 郷原佳以『文学のミニマル・イメージ モーリス・ブランショ論』 熊谷謙介
場所を描く表象 佐藤守弘『トポグラフィの日本近代 江戸泥絵・横浜写真・芸術写真』 細馬宏通
ノイズの世紀 江村公『ロシア・アヴァンギャルドの世紀 構成×事実×記録』 浦雅春
「力の場」としての「ファシズモの芸術」 鯖江秀樹『イタリア・ファシズムの芸術政治』 石田圭子
再-魔術かとしての文学 熊谷謙介『マラルメによる祝祭』石田英敬
苦しみ、そして悦びのために…… 平倉圭『ゴダール的方法』 石橋今日美
指紋にとり憑かれること 倉本一径『指紋論 心霊主義から生体認証まで』 前川修
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【関連リンク】

SITE ZERO | 仮面をつけた現実──フロイト「不気味なもの」のイメージ論的読解の試み|森田團

本文中で触れた森田團氏の『SITE ZERO/ZERO SITE』所収の論考のサマリーがオンラインで読めます。
 

千葉雅也(上)――自分が楽しいということを譲らない -

千葉雅也(中)―― 技術と思想は一体でなければいけない

千葉雅也(下)―― まっとうであることを引き受けすぎない WEBRONZA+文化・エンタメ – WEBマガジン – 朝日新聞社

「論壇女子部」による千葉雅也氏へのインタビュー。
 
 
 
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【本が好き!編集部ナガタのプロフィール】
当「BOOKニュース」を担当している’79年生まれ男性。
アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。
その後、札幌・千葉・マニラ・東京・京都を転々。現在は板橋区在住。
フリーター・契約社員・嘱託社員・正社員・無職・結婚・離婚など紆余曲折を経て現職。
百科事典と画集と虫と宇宙が友達です。
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