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吉本隆明氏と現代書家との対談集『書 文字 アジア』

「書」の見方がわからない人が意外と多い。見方が分からなくても、とにかく感じたまま好き嫌いを語れば良いのではないか、と僕は思う。しかし、感じたまま語ろうにも、果たして目の前にしているその「書」を、自分が好きなのか嫌いなのかすらわからない、ということなのかも知れない。つまりどうでもいいというのだ。
 
実際のところ、「書」はどうでもいいものではない。どういうことなのか。先日刊行された吉本隆明と石川九楊の対談集書 文字 アジアを紹介しながら説明してみたいと思う。
 

 
吉本隆明の名前は知っているけれど、彼が誰なのかを知らないという人のために簡単にその経歴を述べておく。
吉本隆明は、戦前生まれで学徒動員を経験した、いわゆる戦中派世代に属する。敗戦後、吉本は現代詩人としてデビュー。詩人として評価されながら、詩論や文学者の戦争責任を追求する論争で評論家としても強い影響力を得ていく。1960年代以降の学生運動に関わった日本の多くの思想家たちが、吉本からの影響を認めている。
 
本書で吉本と対談している石川九楊については、その名前すら知っている人は少ないだろう。現代書家として随一の存在で、活発に活動している人なのだが、仕方ないのかも知れない。そもそも「書」があまりにも巨大な無関心に晒されているので、書家のなかで有名でも、その知名度はタカがしれている。
人が何かを書きつけるときに、筆が紙などに触れる感触を「筆触」というが、石川は「筆蝕」という概念を自らの書論で唱えている。まだ何も書かれていない紙を、筆が蝕んでいくさまを重視しているのだ。
この概念は、筆で紙に触れている感触、そして筆の運び方から、その強さや弱さ、勢いや躊躇い、そこに込められた思惑を読み取ろうとするものである。
 
対談相手となる吉本もこの筆蝕概念を有効なものと認めている。二人の対談は、宮沢賢治や良寛や高村光太郎、岡本太郎の母として知られる岡本かの子らの書の図版を挙げながら進んでいく。
 
それではさっそく、「書」がどう重要なのか、本書から辿ってみよう。
 
石川の唱える筆蝕は、言葉のスタイルつまり「書体」を形作る。吉本はそれを受けて、「書」における「書体」とは、「文学」における「文体」と同じではないかと返す。
作家たちが原稿に書きつけた文字が出版されるときに、書き文字は活字に置き換えられるが、筆蝕や書体は無視されてしまう。
 
ここには日本語の文字とイメージをつなぐ関係の特殊性がある。たとえば「カオル」という名前の響きだけを西欧人は覚えてしまう。日本人の場合は、これが馨なのか香なのか薫なのか「かおる」なのか「かほる」なのかで、意味が微妙に異なってくる。更に、それぞれの文字がどう書かれているのかということがイメージに影響してくる、と石川は言う。ここだけ読むと、活字やデジタルデバイス上のフォントに慣れ親しんでいる人には話がわかりにくいかも知れない。
 
たとえば江戸時代後期の僧良寛の書は、ものすごく脱力している。吉本と石川はその脱力っぷりから、良寛の思想を読み解いていく。
歌人としても評価されている良寛だが、活字で彼の歌を読むだけでは、吉本や石川が読み解く緻密さには到達できないだろう。
 
またたとえば、詩人としても彫刻家としても知られている高村光太郎の書を、石川はとても高く評価している。
吉本によると、高村はある時期、彫刻の代わりに、あるいは彫刻の延長として、書を書いた。空襲で焼け出されて宮沢賢治の家族がいた花巻に移住したときに、彫刻作品をほとんど作らず、書をたくさん書いていた、というのだ。
高村は「書は造形の芸術」という言葉を残している。造形とは彫刻や絵画などを指す。
石川は書の批評は絵画批評と違って、あくまで言葉の芸術だと主張し、高村のこの主張を否定している。石川によると、書は文学に次ぐ芸術である。もっとも、吉本は文学よりも書のほうが根源的だと述べており、僕もその考えが一番正しいと思う。筆が紙に触れる、書きつける瞬間の連続が無ければ、文学もまたあり得ないからだ。
 
では、ひとつの書かれた文字の成立を筆蝕から読んで評価するということがどういうことなのか。井上有一という書家の「塔」という作品を挙げて、吉本と石川が議論する。技法の価値を評価する石川と、その書かれ方にある稚拙化の問題を指弾する吉本とのやりとりは緊張に満ちていて読んでいて興奮する。
 
石川は1970年代ごろに、吉本ら戦後詩人の作品を、従来の「書」の書き方で書いてみて違和感を感じたという。「書くための戦略、戦術みたいなものを作り上げていかないと…時代劇の道具立てのような書の範疇に退縮していってしまう」と自らの危惧を吐露している。
 
石川は、書は毛筆でなければならないとは言わない。石川が毛筆を使うのは、この道具が柔軟で鉛筆のような表現も筆ならではの表現も可能だからだ、という。鉛筆では毛筆のような書き方はできない、というのである。
 
長い歴史の中で使い方を開発されてきた筆の表現力は甚大だ。その表現力を駆使した「書」の世界を知ることは、他のあらゆる表現を緻密に読み解くための素養になるだろう。
 
本書には、書の歴史の概説も収められている。石川の明快な解説を読むことで、書の楽しみ方や読み方がわかってくる。
 
なお、タイプライターやワープロの普及(そしてPCやケータイなどのデジタルデバイスの普及)によって、石川のいう筆蝕は新たな課題に直面することになる。本書末尾では吉本がこのことを指摘している。
1992年に行われたこの対談では、石川から明確な回答はされなかった。
 
筆が紙に触れる瞬間の連続が無ければ文学もまたあり得ない、と、さきほど書いた。違和感をおぼえた方も多いと思う。では逆に、かつて文学を書くときに欠かせなかった「筆が紙に触れる瞬間」は、何にとって代わられたのだろう。そしてそれを、筆蝕に代わって何と呼ぶことで、石川のこの緻密な分析を引き継ぐことができるのだろうか。

 
 

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にかにかブログ! (おぶんがく&包丁&ちぽちぽ革命)

石川九楊・デリダ・吉本隆明の三人の存在や理論の彼方に、現在もっとも注目すべき「詩人」だと思って僕が注目しているのはni_kaさん。
HTMLとJavascriptそしてセカイカメラによるARを駆使して、ポップな「詩」を綴っています。最初は面食らいますが、慣れてくると他の詩が物足りなく感じられてきます。

 

hello, archi – texture.

こちらは最近頭角を現し始めている「現代詩人」彩藤彩氏。
Xbox 360向けのゲームデバイスKinectと、C++などによるプログラミングによるVJで活躍しています。
石川九楊氏の「筆蝕」論を、この詩人の活動にどう読み込んで展開していけるのか。今後の課題としたいところ。

 

 

 
 

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リオタール『言説、形象(ディスクール、フィギュール)


『書 文字 アジア』で、吉本隆明はデリダとソシュールの文字論を挙げて議論しているが、そこにリオタールを加えてもいいかも知れない。
いずれにせよ文字論はまだまだ議論の余地がある問題だろう。
なお、『書 文字 アジア』で吉本はほとんどデリダをまともに取りあげていないが、デリダは2001年に刊行されたインタビュー集でワープロやインターネットにも言及していた。本書の中で批判されているとおり、デリダは硬い尖端を持つ筆記具しか想定していないので、石川九楊のような毛筆を基軸とした思考や歴史観とは異なったものの見方をしているかも知れないが、それでもちゃんと読んでおく必要があるだろう。デリダのワープロ論はパピエ・マシンで読むことができる。

 
 
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【本が好き!編集部ナガタのプロフィール】
当「BOOKニュース」を担当している’79年生まれ男性。
アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。
その後、札幌・千葉・マニラ・東京・京都を転々。現在は板橋区在住。
フリーター・契約社員・嘱託社員・正社員・無職・結婚・離婚など紆余曲折を経て現職。
百科事典と画集と虫と宇宙が友達です。
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