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中身も装丁も超カッコいい哲学書シリーズ。エクリチュールの冒険 後篇

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今回の記事は2章構成
前篇:シリーズ「エクリチュールの冒険」を紹介
・後篇:『到来する共同体』の内容について紹介

 
「月曜社」という人文系の出版社がある。ブログウラゲツ☆ブログなどで、人文系の書籍の刊行情報や、研究者の活動などを定期的に告知している出版社だ。その月曜社が刊行しているシリーズに「エクリチュールの冒険」というシリーズがある。このシリーズの第三回配本として、現代イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの到来する共同体という本がこのシリーズの一環として刊行された。
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「共同体」という概念をめぐる、古代から中世を経て現代まで続く長大な歴史を取り上げながら、かつておそらく誰も指摘しなかったであろう「共同体の可能性」を明らかにするというこの書物。内容もさることながら、なんといっても造本が、文字通り「ヤバい」。今回は記事を2章構成として、前篇ではシリーズ「エクリチュールの冒険」を紹介した。この後篇では『到来する共同体』の内容について紹介したい。

 

この本は、驚くほど薄い。「訳者あとがき」を含めても150ページていどだ。しかし本書の前提となっている哲学史上の議論は既に膨大な蓄積がある。では、本書で提起されている「共同体」と、本書以前の他の議論における「共同体」とは、どう異なっているのだろうか。
 
アガンベンは、フランスの高名な文学者モーリス・ブランショの共同体論明かしえぬ共同体を指して「否定的共同体」と言っている。

 
この『明かしえぬ共同体』は、先行するもうひとつの重要な共同体論であるジャン=リュック・ナンシーによる無為の共同体に対する応答として書かれたものだ。

 
そしてこのナンシーの『無為の共同体』もまた、先行するジョルジュ・バタイユの「共同体」の概念を参照・発展させてたものだ。このほか、アルフォンソ・リンギス何も共有していない者たちの共同体、田崎英明無能な者たちの共同体などもある。
彼らの「共同体」論に共通しているのは、共産主義や全体主義といった政治的な集団行動が内外に暴力的な破壊を働いたという歴史への反省、安易な仲間意識に対する不信だ。そして、古くからの宗教儀式における昂揚や恍惚の否定しがたい魅力や、その動員力への関心も。
さらに、バタイユからブランショにいたるまで、リンギスや田崎においても、重要なのは「死」である。誰かの「死」が、それを看取る人々のあいだに、彼を喪った人々のあいだに、共同体を浮かび上がらせる。
 
しかしアガンベンはそのような「否定的な共同体」、「何かの不在」によって可能になるような共同体のことは語らない。
 
アガンベンが参照する「共同体」は、たとえば、1970年代の初めごろに映画館で見ることができた「ディム」というブランドのストッキングの広告スポットに登場する、「一群の若い女性」だ。彼女たちは、ひとりひとり別々に撮影された映像を編集してひとつのサウンドトラック上で再生されているため、実際には、どこかの「撮影現場」のようなところで互いに意思疎通しながら踊ったわけではない。彼女たちは微笑みながら踊ってはいるものの、その同期のしかたには不協和な印象がつきまとう。

※アガンベンが本書で参照しているのがこの映像だという確証はないが、おそらく、上掲の動画の最初の一本が言及されている映像なのではないか。非常に魅力的な映像だ。
 
アガンベンによると、1920年代になってから、人間の容姿すら資本主義によって商品化されはじめたという。このことについては、クラカウアーやベンヤミンといった論者たちが既に論じている。アガンベンは、彼らが論じた「人間の肉体の商品化」を、必ずしもネガティブには捉えない。たしかに人間の肉体は、大衆化し、商品として交換価値の法則に屈従させられるようになった。しかし、それと同時に、それまでは不可能だった自由も獲得するに至ったとアガンベンは言う。人間の肉体は、商品化することで、単なる生物学的な運命からも、個人的な伝記からも解放される。アガンベンは詳細を明らかにしていないが、つまり、人間の姿は写真や映像に写し取られることによって単なる生物の姿ではなくなり、商品として流通することで単なる個人的な存在以上の在り方が可能になったということだろう。
この状況を指してアガンベンは人間の肉体は「なんであれかまわないもの」への転化だと呼ぶ。キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の創世記においては、神が人間を自らの似姿として創ったと言われていた。人間の姿が商品化すると、創世記の神から人は自由になる。
 
資本主義における、写真や映像の大量生産・大量流通による「人間のイメージの商品化」をスペクタクル社会(いわば「見世物」が全景化した社会)として批判した人物としてギー・ドゥボールがいる。ドゥボールの主著スペクタクルの社会を参照しながらアガンベンは、スペクタクル社会(人間のイメージが商品化されてしまった社会)では、コミュニケーション能力そのものがコミュニケーションを妨害すると言う。ジャーナリストやメディア産業の官僚的な関係者たちによって「伝統と信念、イデオロギーと宗教、アイデンティティと共同体を解体し空っぽにしてしまている」のだ。

  

 
アガンベンによれば、人間は資本主義社会の発展と技術の発達によって生物学的な運命や宗教的な「神」から自由になった。他方でそのスペクタクルの全面化の結果、信念や共同体のような、伝統的なものを妨害する社会に人間は生きるようになっている。本書は、このことを明らかにする。思い起こせば、前掲の、過去の「共同体」論のいずれも、近代から現代にかけて、資本主義と社会の情報化が発展し、宗教的で伝統的な共同体が解体していく状況をどう捉えるかという問題を扱っていた。
 
そもそも「共同体」とはフランス語では「communaute」、イタリア語では「communita」と書かれる。日本語ではわかりにくいかも知れないが、これは共産主義「communisme」や、コミュニケーション「communication」や、 キリスト教の用語である聖体拝領(「合一」とも訳される)「communion」と同じ語義を中心に持っている。
 
一般に、同一の目的を持っていたり、同一の文化を共有している者たちの集合を指して「共同体」という言葉がイメージされる。バタイユはスターリンたちの共産主義、ヒトラーらのナチズム(国家社会主義)、そしてブルトンらの超現実主義といった主義思想を批判し、自らのグループを作った。ブランショはバタイユのその秘密結社「アセファル」グループを指して「明かしえぬ共同体」と呼んだ。そこにはしかし、メンバーによる供犠(死を伴う儀式)や秘密といった神秘化やネガティブな論理が必要になってしまう。アガンベンはそういった特権的な論法ではなく、徹底的に肯定的な語り方でもって新しく「共同体」を論じ直すことを選んだ。
 
アガンベンを日本にいち早く紹介していた岡田温司氏のアガンベン読解によれば、アガンベンは「民族や国家、職業や地位などへの帰属を超えた」存在による政治のことを考えていたという。
そこでアガンベンは少数者や被抑圧者たちのアイデンティティのために議論をしているわけではない。マイノリティとマジョリティという線引きではなく、誰も彼もの「あるがままの存在」を肯定する政治論。これはのちのアガンベンの政治哲学にも貫かれるスタンスである。

 
さて、アガンベンが論じたような「共同体」の問題は、当然ながら必ずしも哲学だけの問題ではない。実際の政治の問題であり、以前に当Bookニュースでも取り上げたバディウが愛の世紀で述べたとおり「恋愛とは最小の共産主義」であるとすれば、これは恋愛の問題ですらある。

 
また、恋愛や師弟愛、友情そして政治的な党派形成については、それをメインテーマとした最近のSF大作ゴースト・オブ・ユートピアにも『到来する共同体』のテーマは共通する。『ゴースト・オブ・ユートピア』は、ユートピア建設を目指して挫折していく無数の共同体を描いているが、そのなかでひときわ異様な雰囲気をもたらす「愛の新世界」という章がある。そこでは暗にピエール・クロソウスキーという思想家が参照されている。このクロソウスキーという人物は、当記事で既に何度も名前を挙げているバタイユの盟友として秘密結社「アセファル」に参加していた人物だ。なお、章題「愛の新世界」も空想的社会主義者と呼ばれたフーリエという思想家の大著のタイトルである。

  

 
「共同体」というものをテーマにしたものはもちろん小説だけではない。恋愛を共同体の1形態として考えると恋愛をテーマにしたものがすべて含まれてしまうのでそれはとりあえず除外するとして、真っ先に思い浮かぶのは、『少女革命ウテナ』『輪るピングドラム』の幾原邦彦と『ウツボラ』の中村明日美子のタッグによる『ノケモノと花嫁』だ。この作品のタイトルにある「花嫁」が思い出させる、「結婚」というテーマは、現代日本では恋愛を前提にすることが当然視されている。しかし、昨今の保守化と伝統の見直しにより、血縁的な共同体の保守維持のための制度という結婚の役割があらためて認識されてきている。そういった認識に対する批判的な視線が幾原の作品には繰り返し現れてくるのだ。

幾原の作品はいつもそうなのだが、この作品にも「世界を変えるための」秘密結社が登場する。象徴的で儀式的な「結婚」による血縁的な共同体モチーフと、革命的で暴力的な秘密結社という政治的共同体モチーフの組み合わせのなかで、『到来する共同体』でアガンベンが論じたような「ありのままの存在」が蹂躙され、過酷な試練に晒され、戦い生き残っていく、というのが本書の魅力なのだ。
 
今回の記事は2章構成
前篇:シリーズ「エクリチュールの冒険」を紹介を読む

・後篇:『到来する共同体』の内容について紹介
 

 
【関連書籍など】


 

【関連ページ】

DSpace at Waseda University: 聖なるものと共同性についての考察 -ジョルジュ・バタイユとジョルジュ・アガンベンとの比較を通じて-

早稲田大学の古市氏による、バタイユからナンシーを経てアガンベンにいたる、「社会学」的な共同体論の系譜を簡潔にまとめた論考。
今回の記事でもとても参考になりました。
上掲のリンクからPDFをダウンロードできるので、この記事と併せて読まれることをオススメします。
 
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【本が好き!編集部ナガタのプロフィール】
当「BOOKニュース」を担当している’79年生まれ男性。
アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。
その後、札幌・千葉・マニラ・東京・京都を転々。現在は板橋区在住。
フリーター・契約社員・嘱託社員・正社員・無職・結婚・離婚など紆余曲折を経て現職。
百科事典と画集と虫と宇宙が友達です。
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